開館時間11:00am〜5:00pm 毎週月・火 休館 入館料 200円


吉田さよみ水彩画展 2/10〜2/28
                 母は視ている     吉田 さよみ
                             
 母は八十九才まで長崎での一人暮らしを固持し続け、私か帰省したちょうどその日、手を煩わす事なく、あっけなく逝った。
「いくつまで生きたい?」と尋ねると[あんたの行末がどんな人生か見届けたい気もするね]と言っていたのに。それでは私かいつまで経っても母の年に追いつけないではないか。
 その二、三年前、来福した折、母を美術館るうゑに案内した。館長や室見川水彩会展開催中だった同会の仲間達とも交わった。美術館など無縁の入だったので し緊張していたと思う。今度私の個展があると知ったらビックリでしょうね。久しぶりに母の夢を見ました。あなたの胸で号泣している私か居たのですが目覚めてみると悲しい気持ではなかったので久しぶりに夢の中で会えて嬉しかったのだと思います。個展中、色んな方との交わりを楽しみにしています。また、足を運んで下さった事に感謝を申し上げたいです。
                                                 (福岡市早良区在住)
田村正一 水彩画展  3/2〜3/20
            詩を紡ぐということ       田村 正一
                                 
 「何か面白い絵のモチーフはないものか」と撮り貯めた写真を眺め思案に暮れる毎日。もちろん散歩で見る雲の形、海の色、波の様子等毎日の変化はそれなりに描きたい意欲には駆られる。しかしそれを写すだけ、切り取っただけでは絵にはならない。   
 ただ描く段に於いて形や色、表現のバリェーションを楽しむことは出来る。そしてある程度描写できるようになれば興味も薄れ、次の刺激を求めることとなる。
 描けたからと言って何ぼのものかと思ってしまうのである。それでは一体「絵とは何か」この問い掛けがまた始まる。結局それは詩を紡ぎ出すことであるとの思いに至り、どのようにすれば詩が生まれるのかといろいろ考え込む。   
                    
 「秘すれば花」これは有名な世阿禰の言葉であるが、最近このことを踏まえて絵作りを考えてみる。例えば対象物が何かで覆われている状態、逆光でよく見えない状態、風化等で元の形が崩れていること等々、この様な状態を仕掛けとして試行錯誤。すなわち隠すことによって観る側の想像を喚起させ、そこに余韻がうまれないものかと期待する。しかし中々理屈通りには行かない。絵の面白み、趣とは微妙なものである。私は嗜む程度に俳句も作っている。十七文字の言葉の提示によって如何に想像力を喚起させ、世界を膨らませるか、俳句は最小の詩型である。芭蕉の名言に「謂ひおほせて何かある」私の中では絵と俳句が混沌としながらも補完し合っているように思われる。
                      (福岡市早良区在住)
大江良二展  3/23〜4/10
        
                        ラジオーデイズ               大江 良二

 我が家では平素はラジオ。もっぱらネットラジオ、NHKらじるらじる。
 これは佐賀や福岡発の放送ではない。仙台、東京、名古屋、大阪の中から選択する。何れを選んでも、ローカルな話題となるとどっちみち遠くの話。
 切迫した使える情報ではない。特にニュースや天気予報に交通情報。知らない地名に通ったことも無い道。それでも大枠は理解できる。事件事故、傘はいるのかしら、渋滞、工事中。必要ではないけど分かる。まさに、聞き流し。でも不都合は全く無い。仕事も順調。立ち止まってラジオに聞き入るなんてことは滅多に無い。そんなことしてたらいろんなことが捗らない。
 絵画教室にて、「リンゴは真ん丸じゃありませんね。」「ここから見ると、モデルさんの鼻は結構左に寄ってます。」「左右の目のサイズ、同じじやないですよね。」それとなく生徒さんに話しかける。そうか…。普段、「聞き流す」が如く、見流しているんだな(そんな言葉無いけど)。
 日常、大枠が分かっていれば事足りる。景色、果物、人、顔、等々。大枠で見て理解している(つもりになってる)。いちいち細かく観察などと、そんな暇あるわけ無い。だから「聞き流す」見方が染み付いてしまう。誰でもそう。
 「描けない」のではなく「見えない(今はまだ…)」のだ。描き方ではなく見方を磨く。大丈夫。絵を描く時は、聞き流さず。たっぷりの時間、立ち止まって耳をすませば良いのです。          (佐賀市三瀬村在住)


 
 
 館 長 随 想    東 義人
                                  正平さん、つれづれ

                                    私記 松田正平 その一          

 松田正平さんの訃報は折からの滞在地、広島県福山できいた。ニ〇〇四年五月十四日深夜のこと。読売新聞小林清人記者から自宅に電話が入り、受けた家妻が福山の実家あてに連絡してきた。翌十五日、私は福山誠之館高校同窓会に出席した後、福岡に帰った。各紙いずれも葬儀の日程を記していた。一瞬福山から宇部に向うことも頭をよぎったが、やはり威儀を正して福岡から出立すべきだろう。
 五月十六日午前の「ひかり」車中、正平さんの葬儀はどんなだろう、と想像した。思わずして香月泰男画伯葬儀のシーンが浮かんできた。一九七四年三月十七日、所は三隅町明倫小学校体育館。いまからちょうど三十年前のこと。この四月には山口県立美術館で「香月泰男没後30年展」が催され、その初日香月婦美子夫人に挨拶したばかりである。
 香月泰男画伯葬儀を私は取材した。カメラマンと音声さんの三人。その壮大な儀式にわれわれは半ば圧倒された。参列者の中の著名人数名にインタビューもした。テレビ番組「追想・香月表男」にいたる一番最初の撮影というメルクマールになるものだった。
 正乎さんの葬儀はどんなもんだろう。享年九十一。地元の宇部でも多くの美術ファンや市民に愛されていた正乎さん……。
 新幹線を新山口駅で降りて宇部線ホームに移動、三十分ほど待って単線二面編成に乗車したが、車中、同じ葬儀に向う島根県益田市からのグループに話しかけられた。女性四人に男性一人。その中の年輩の女性の話は印象にのこつた。
 「私は正平さんの姪です。正平さんの姉の子です。終戦直後、正平さんはちょいちょい益田の方にきて。私もモデルになっています。夏なのでシュミーズの変な格好で」。そうなのか、と私は彼女を見直した。そうか、彼女なのか、と確定はできないものの、正平さんの終戦間もないころに描かれた少女座像を思い浮かべていた。
 正乎さんは島根県日原町に久保田家二男として大正二年一月十六日に生れている。故あって五才の頃、宇部の松田家に養子として引きとられる。日原町や益田市に正平さんの血縁者は多いはず。機会をつくって一度、正平さんの生れ故郷をたずねてみたい、そしてモデルになった姪の彼女も含めて縁者の方々に往昔のことをゆっくり聞きたいものだ。 終点宇部新川のひとつ手前の東新川駅で下りる。近くの菊川画廊へ。益田からの五人も、さらにそこではじめて出会うことになる神戸は花岡画廊の花岡忠男氏も。 葬儀場は近かった。入ってすぐ記帳した。御仏前と書いた不祝儀袋を供えようとした。だが受付担当者は一切どなたからも受けいれないと固辞される。そばにその旨の謹告文が表示されている。袋は再び胸に納めた。 時を経てだんだんその流儀の意味が分ってきた。それは辛くて思い分りようだった。 ロビーに東京銀座のフォルム画廊、福島葉子さんの姿を見つけた。福島さんは宇部全日空ホテルに泊られたとのこと。福島葉子さんは先きの香月泰男没後三十年展オープニングの際にもお見かけしたが話しかけるチャンスはなかった。
 福島さんにはただ一言、母上の故福島慶子さんへのお礼を伝えたかった。それは香月泰男没後一年、テレビ番組「画家・香月泰男」を制作放送した時のこと。RKBスタジオにおける香月泰男を語る座談会にわざわざ熱海から福島慶子さん(香月泰男が恩人と仰ぐ福島繁太郎氏夫人)にお越しいただき貴重なお話をうかがい得たことである。他には東京から落語家桂小南さん、別府から画家宇治山哲平さん。司会は朝日新聞西部本社の源弘道編集委員。 ほんとうに福島慶子さんからは貴重な思い出話や批評の言葉をいただいた。
お三方の中ではとぴぬけてユニークでおもしろかった。「香月さんは本来カラーリストなのよ」「台所の詩人ね、とからかったこともある」などのコメントも印象にのこっている。いまなお福島慶子さんには感謝している、と素直に葉子さんにお礼申し上げた。 正平さんの葬儀は簡素だった。 弔辞は一人もなかった。会葬お礼の挨拶はお孫さんがつとめられた。
香月泰男葬儀と比べることもなかった。どのような事情があったにしろ、これはこれで正平さんらしい、と思った。正平さん流儀と言っていいのだろうか。 祭壇の棺をあけて眠れる正平さんの姿を拝した。静寂そのものであった。遺体の横に煙草1カートン添えられていた。ダンヒルだった。


                                      
                                      私記 松田正平 その二          

 
 
昭和五〇年代、福岡で松田正平作品に接することはなかった。福岡の画廊周辺で話題になることもなかった。
ところが昭和五九年、正平さんが日本芸術大昔を受賞されると様子がすこし変ってきた。当賞は大手出版の新潮社仕切り、選考委員は井上靖、大岡信そして洲之内徹各氏で同質の第一回受昔者は香月泰男画伯。
十五年の時間差がなぜか程よく思われてうれしかった。遅すぎるとは思わなかつた。 昭和六〇年十月、宇部市文化会館で「松田正平?第16回日本芸術大賞受賞記念展」が開かれた。当展は銀座フォルム画廊中心の画商グループの企画によるもので、初期から近年まで五〇点余の油彩作品が展示された。周防灘や祝島風景、バラ図や裸婦や「灯台」や「眠る人」も。
会場でたまたま正平さんを見かけた。前傾姿勢で小走りに移動されていた。呼びとめて挨拶しスナップ写真を撮らしていただいた。
故郷での受賞記念個展とあって正平さんは活きいきとみえた。この時正平さんは73才。同伴してはじめて正平さんと出会った妻は「作品と容姿が似ている」と後で囁いた。 展示作品の一部は購買可能だった。一点、いづれかを選ぶか大いに迷った。結局は妻に任せた。それが四号の裸婦像である。
 正平さんには時折、手紙を出していた。中に私が担当したテレビ番組のDMもあった。 正平さんからいただいた最初の便りは昭和62年3月7日の消印で市原市鶴舞発。「いつも色々と有難く存じます。幾度か御会いして居て、いつも失礼、御寛容お願いします。貴兄の作られたお作品、ぜひ拝見したいものです。御れい迄。」 
さらに一週間後の第二信には感動した。
「貴兄の作品を拝見しました。民放にしてはきまじめなお作で最後迄みせていただきました。貴兄は若いので元気で歩く事が出来て幸ですね。私はときどきパリの昔の住いをたずねて五十年昔とかわらぬ街をなつかしみましたがもう行けなくなりました。御元気で。」
 正平さんのやさしさと律儀さと、さらに75才の自分をいたわる厳しさを二通日の文面にみることができる。


    
                                    私記 松田正平 その三   

 十二年前の一九九四年(平成六)五月、早良美術館るうゑを開設した。開館企画は田部光子展、二見矩子展と地元作家におねがいしたが、早くも第四回は念願の松田正平展を企画した。できるだけ早く松田正平作品を福岡の方々にも見てほしい、という気持と同時に、私自身がしばらくは松田正平世界に浸りたいという思いが強かった。 展示作品は東京の瞬生画廊に集めていただいた。販売可能を条件にした。当り前のことだが正平さんに企画展示の了承をいただくための手紙をしたためた。 正平さんからは巻紙に毛筆の一文を受けとった。その筆に俳味のある品格を感じた。
                 老いぬれば うらもおもても
                     おぽつかな 紙のうらのべて
                            字をかきにけり       (中川一政)
                  ことしは かくがい暑さ御自愛おいのり申し上げます
                                     平成六年七月七日        松田正平
 正平展(八月三日〜九月四日) は予想以上の来館者を集めた。その数もさることながら、福岡近隣に松田正平ファンが多いことに驚いた。熱烈な正平心酔者にも出会うことができた。中には「香月泰男よりも好きだな」と密かに私に告げる画人もいた。はじめて正平作品に触れる方々の多くは「明るいですね」 「心が洗われるよう」「一見稚く見えるけれども奥が深そうねえ」と口々に素直な感想をつぶやいた。八月某日夕刻、リュックを背負って汗びっしょりの男性がみえた。正平作品に格別の思いがあるようだった。食い入るように作品を凝視していた。これから夜行列車で由布院に回るとも言う。彼こそが宇部菊川画廊オーナーの菊川俊雄氏だった。爾来、松田正平さんに関連していろいろお世話になるその人だった。油彩が中心だった。水彩、デッサンも合せて三十点。風景、女性の顔、静物などバラエティに富んでいた。約一ケ月間、正平作品に身近かに包まれて私は幸せだった。
 松田正平展は盛会裡に終り、拙館のイメージアップにつながった。 正平さんに感謝して礼状を認めた。翌年の一九九五年(平成七) は松田正平さんにとって厳しい年だった。正平さんは高齢のこともあり千葉県市原市鶴舞の山里から故郷の山口県宇部に帰って、ひとり息子の孫次郎さん一家と一緒に生活したい、という意向をおもちだということは間接的に耳にしていた。この年正平さんは八二才、夫人は年上ときいていた。夫人の万が一段と強いお気持だったときく。
 ところが孫次郎氏が一月死去、行年五二才。悲連の正平さんご夫妻は五月、鶴舞を処分して宇部に帰郷移住。ひとり息子に先きに逝かれるとは正乎さん夫妻にとって耐えがたいほどの衝撃だった。経済的負担も八二才の肩にかかる。
 同年三月、下関市美術館での「喜多村知展」を観にいった。事多村知は島根県生れで正平さんとも縁があり東京銀座フォルム画廊に親しい物故作家である。はじめて接した私はその荒々しい剛直でのぴやかな筆致の風景画に驚嘆した。さらに展覧会企画書が菊川俊雄氏であることを知って、氏の熱意と腕力に一目を置いた。そして別れ際に菊川画廊の位置図を描いてもらった。
 六月某日、家妻の運転する事ではじめて宇部の菊川画廊に行った。この時は正平さんが目的ではない、まだ宇部帰郷のことは知らなかった。偶然にも「きょう午後、正平さんがここに見えますよ」と菊川さんが言う。時間を見計って中食をとるため、そば屋「むさしの」に行く。食べ終った時、小暗い店内の少し離れた席の中から野太くて山口なまりのある老年の声を聞いた。しばらくあってそれが正平さんであることに気づいた。正平さんグループも立ち上るところだった。思いきって挨拶した。正平さんはニコリとされた。私を思い出されたようだ。そして連れの方を紹介してくださった。「これは家内」、大柄の上品な方だった。そして「こちらは後家さん」と言われた時にはおかしかった。笑い声がもれた。亡くなった孫次郎さんのお嫁さんのことだった。それぐらいは私にも推察できたのだが。あと一人は孫娘さんだった。ここで夫人以下三人とは別れて、菊川画廊行きを予定されていた正乎さんを乗せて同道した。 正乎さんは優しかった。俗に言う好々爺の感じだった。ただ移転直後もあってかその外貌は少しほっそりみえた。
 「むずかしいね絵は。何年、何十年描いても分らん。描けば描くほど分らなくなる。分らんから描きつづけるのかもしれん。他人がいいよと言ってくれても自分ではなんでこれがいいのか分らんもんね」。あらためて正乎さんの謙虚さに頭が下る。
油絵は体力的にきついな、と言われながらもアトリエをつくるつもりであることをさりげなくおっしゃった。三十分ほど応待していただいた。そばに居るだけで私は満たされた。この日は幸運だった。
東京で最後にお会いしてから何年か。この日が宇部で爾後十回近くお合いする最初の記念すべき日であった。



                                  私記 松田正平 その四
       
 
 十年ほど前、増えすぎた単行本や雑誌を廃棄すべく整理した。ドイツ語ラジオテキストも捨てるつもりだった。ところがその表紙の絵図に眼をとめ俄かに心奪われた。どこかで見たような既視感とともに、一枚の絵画としての温かみとなつかしさの魅力に惹かれた。
 表紙絵の画家は松田正平。テキスト使用時は全然気にもとめなかった。ただちょっとヨーロッパ的ドイツ風の雰囲気があるな、ぐらいに思っていた。もちろん当時は松田正乎の名前すら認知していない。
 NHKラジオテキストDeutsch初級/講師 植田敏郎/10月ドイツ語  絵は赤い屋根の家並みの俯観・ローテンプルグの町の一角かもしれない。一九五九(昭和34)年9月15日発行。定価三〇円。
 松田正平描く表紙絵テキストは数えて16冊。確認した最後の16冊目は一九六一(昭和36年3月15日発行で、4・5月号、講師は藤田五郎となっている。三〇円変らず。ドイツ語学習はモノにならなかったが、16冊のテキストはいまや私の宝物になった。
 松田正平テキスト表紙絵制作のことを山口県立美術館編集発行「松田正平」(一九八七年)年譜で確める。一九五五(昭和30)年 43才(前略)この年ころからパリに行く原精一のあとをうけ、日輿証券絵画部に教えに行く。また、このころから数年間、かつてパリ時代におなじアパートに住んだ前田陽一の世話でNHKフランス語講座(ラジオ)のテキスト表紙絵などのアルバイトをする。のちにはドイツ語講座テキストのカット絵などもひきうける。
 ここにはドイツ語テキストのカット絵などとあるが表紙絵が正しい。私の所有する松田正平表紙絵テキストのカット絵は別人が担当している。前田陽一とはフランス文学専攻の東京大学教授で、正平さんがパリにいる間中、先住者前田氏と同じアパートに住んでいる。そして語学習得のためエコール・ド・アリアンスに登録したとある。絵を学ぶためにはフランス語をまずモノにする必要があったのだろう。
 正平さんは一九三七年から5年間の予定でパリ留学を志したが、第二次世界大戦のため2年で切りあげ、止むを得ず三九年帰国した。正平さんのフランス語はついに耳にすることはなかったが、宇部恩田の自宅書架には部厚いフランス語背文字の本が何冊も並んでいた。


                               
                                  私記 松田正平 その五         
                                                  
 周防灘。周防灘は瀬戸内海最西域を指し、九州では福岡、大分両県にまたがる。国東半島も周防灘に面す。
 松田正平描く「周防灘」はその名の通り山口県側。正平さんの風景画は光海岸、燈台(宇部港湾)を含めて圧倒的に周防灘が多い。海景といえば正平さん、正平さんといえば「周防灘」に尽る。ときに私は突拍子もないことを思いつく。正平さんが宇部に帰郷されると聞いた時、「正平さんと蒜和にr周防灘」を描かれた島に行きたい。正平さんが描かれるところをそばで見たい。できれば私もスケッチしたい」と私は菊川画廊の菊川さんに提案した。菊川さんが世話役で数人の同志を募って、とも付け加えた。菊川さんは即座にトンデモナィと一蹴した。後になって無知と思い上りを私は恥じた。 宇部は海、周防灘に臨む。近くの海岸、あるいは近くの島に渡って「周防灘」は描かれたものと安直に思いこんでいた。それは大間違いだった。
  山口県熊毛郡上関町祝島
 地図を拡げて驚いた。まずもって宇部の近くには島はない。正平さんの周防灘は遠い。遠いばかりか交通の便が悪い。正平さんの作画の拠点は祝島。宇部から柳井港まで事で2時間。柳井港からは一日三便の定期船で1時間半。福岡からは東京に行くよりもはるかに遠い。祝島。正平さんは生涯、何度この島を訪れたのだろうか。そしてどれほどの数の作品を描き残したのだろうか。
 昭和62年画集作成時山口県立美術館編年譜によれば、正平さんがはじめて祝島を訪れたのは昭和22年、35才の時。戦災で宇部恩田を焼き出され、いっとき島根県益田に逼塞した後、山口県光市に移って高等女学校(後に聖光高等学校)の非常勤講師となった時代、当時の絵仲間のひとり、尾崎正章氏の持船で祝島に遊んだのが最初。さらに前出年譜には「以来年に一度、多い時は二度、時期は図画会出品作を完成したのちの四、五月頃に祝島に渡ることが恒例になる」とあり、昭和26年4月、第25回国画会に「内海風景」「祝島風景」を出品し国団画会会貝に推挙される。そして翌年40才の時、正平さんは家族を伴い上京する。
 ところで上関町祝島は十数年前から新聞紙上しばしば登場する。中国電力による原子力発電所建設問題。設置場所は上関町役場のある長島。近接する祝島漁協の反対意思は根深く強い。
 「この島も騒しくなったのお」と正平さんがもらしたのを耳にした人もいる。